縄文時代の住居

縄文時代前期

神奈川県内にしっかりした構造をもつ竪穴住居が営まれるようになりました。本格的な定住生活の始まりです。

 馬場綿内谷遺跡の竪穴住居は平面が長方形をしています。柱穴が多数発見されていますが、四隅のものが特に深く、この4本に立てた柱で屋根を支えていたものと思われます。住居の壁際には溝が掘られ、ここに壁を保護するための壁材が埋め込まれていたのでしょう。住居中央の床が少し掘り窪み、焼けていました。ここには住居に暮らした人が火を焚いた「炉(ろ)」が設けられていました。「炉」は2か所発見され、つくり替えられたものと思われます。

横浜市鶴見区 馬場綿内谷遺跡(ばばわたうちやと)遺跡
横浜市鶴見区 馬場綿内谷遺跡(ばばわたうちやと)遺跡

縄文時代中期

集落の規模は大きくなり、数十軒から時には数百軒もの住居跡が発見される集落の遺跡も少なくありません。集落の数も著しく増えました。

 川尻中村遺跡の竪穴住居は平面が円形をしています。柱穴は6本発見され、このうち壁際近くにある5本に柱を立てて屋根を支えていたと思われます。住居の壁際には溝が掘られ、ここに壁を保護するための壁材が埋め込まれていたのでしょう。住居中央やや奥壁よりに石を組んだ「炉(ろ)」が設けられています。手前側の少し飛び出た場所は、住居の出入り口と思われます。

相模原市緑区 川尻中村遺跡(かわしりなかむら)遺跡
相模原市緑区 川尻中村遺跡(かわしりなかむら)遺跡

縄文時代後期

大きな規模の集落は姿を消します。この時代の集落で発見される住居跡の数は数軒程度です。一方で石を多用する住居や集落が営まれるようになりました。

 敷石住居は柄鏡形敷石住居(えかがみがたしきいしじゅうきょ)とも呼ばれ、平面形態が柄の付いた鏡や鍵穴のような形をしていて、床に拳大(こぶしだい)から一抱えもある石を敷くのが特徴です。写真で柄のように飛び出た部分が住居の出入り口です。屋根を支える柱は壁際に立てられていました。あるいは壁と一体化していた可能性もあります。住居中央に石を組んだ「炉(ろ)」が設けられています。中期の住居に設けられた炉は、中央よりやや奥壁寄りですが、後期の住居では若干入口寄りになる傾向があります。

伊勢原市 子易・大坪遺跡(こやす・おおつぼ)遺跡
伊勢原市 子易・大坪遺跡(こやす・おおつぼ)遺跡

縄文時代晩期

集落の数はさらに少なくなります。神奈川県下のこの時代の集落は、調査も少なく、全体的な姿はよくわかっていません。

 竪穴住居跡の平面は方形になりました。石を敷くこともなくなっています。写真の住居跡は右側の壁を現在の道路にこわされていましたが、それ以外の部分は良く残っていました。屋根を支える柱は4本立てられ、また壁際にもたくさんの柱穴があります。写真上側の柱穴が切れた場所が出入り口です。「炉(ろ)」が住居中央からやや入口寄りに設けられるのは後期と同じですが、床を掘り窪めただけのものです。

相模原市緑区 青山開戸遺跡(あおやまかいと)遺跡
相模原市緑区 青山開戸遺跡(あおやまかいと)遺跡

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