縄文時代の墓で確実に墓といえるものはなかなか見つかりません。酸性の強い土壌では人骨などの有機物が土に戻ってしまい、その痕跡がなくなってしまうからです。また、現代のように墓標などもありません。しかし、なかには、石を囲んでつくった墓(配石墓)や枕石を伴う墓というようにその施設から墓と想定できたり、貝塚によって保護されたものや焼けて炭化したものなど人骨が残ることで墓だと分かることもあります。また、墓に類似した大きさの土坑がまとまって発見されることで墓だと想定される場合もあります。
縄文時代中期の墓は、枕石を伴ってほぼ同じ大きさのものが、集落の中央にまとまって発見されることがあります。川尻中村遺跡はその代表的な例です。
相模原市緑区 川尻中村遺跡(かわしりなかむら)遺跡
貝塚に近接していたために発見された墓があります。稲荷山貝塚で発見された人骨がその例です。貝塚に近接していたため、酸性を示す土壌が中和され人骨が偶然残りました。川尻中村遺跡の土坑墓はその大きさから手足を曲げた状態で埋葬された(屈葬)と想定されますが、稲荷山貝塚で発見された人骨は手足を伸ばした状態(伸展葬)でした。縄文時代といえども、時期によって埋葬形態はさまざまです。
横浜市南区 稲荷山(いなりやま)貝塚
相模原市緑区 はじめ沢下(はじめさわした)遺跡
相模原市緑区 はじめ沢下(はじめさわした)遺跡