陶磁器の碗は、もともとは酒やお茶などを飲む容器で、ご飯を食べる際には漆器椀が使われていました。現在、飯碗のことを「お茶碗」と呼んでいるのはそのためです。陶磁器の碗が飯碗として使われるようになったのは、17世紀後葉以降と考えられています。写真は高台が高く体部が外に開く広東碗(かんとんわん)と呼ばれる中国(清朝)磁器の影響を受けた碗で、江戸時代後期の製品です。
飯碗
磁器製品は、18世紀後半になると広く普及するようになり、器種が多様化します。写真のようなやや小振り(口径7cm程度)の碗は茶飲み用の碗として使用されたと思われます。筒型の碗は18世紀後半から19世紀初頭にかけて量産されました。この時期には急須の出土例はあまり見られないことから、お茶は煎じて飲まれていたと考えられます。
湯呑碗
皿は、大きさによって大まかに大皿、中皿、小皿、豆皿に分類できます。遺跡からよく出土するのは口径が四寸~五寸前後(12cm~14cm程度)の小皿です。江戸時代には食事をする際お膳が使われていましたが、この大きさは膳にのる大きさとしての規格であったと考えられます。写真は江戸時代後期に肥前で生産された口径が13㎝ほどの染付皿です。
皿
瀬戸・美濃で作られた陶器の徳利で、「通い徳利」や「貧乏徳利」と呼ばれています。瀬戸・美濃の徳利は、容量が二合半(450ml)、五合(900ml)、一升(1800ml)に規格化されていました。胴部に釘などによって店の屋号と思われる文字が彫られていることがあり、販売用の容器として使用されていたと考えられています。写真は二合半の徳利です。胴部に文字は認められませんでした。
徳利