治承4年(1180)に源頼朝が鎌倉に入って以降、鎌倉は都市として急速に発展していきます。その様子は、濃密に検出される多様な遺構、種類豊富な遺物の出土量からも窺うことができます。
県内の中世前期の遺跡は、鎌倉に集中していますが、屋敷跡やお墓などは他の地域でも広く見つかっています。中には鎌倉との関連も考えられる遺構や遺物もあります。
東国の中心地であった鎌倉も、15世紀中頃以降都市の機能が急速に衰えていきます。この頃、県内各地では武士の城館が多く築かれるようになり、本格的に戦国時代へと入っていきます。
伊勢宗瑞(北条早雲)は文亀元年(1501)までには小田原城を奪い、県内を次々に治めていきます。小田原北条氏の本拠地となる小田原は、戦国時代の城郭都市として発展します。そして、城と城下町を堀と土塁で囲む「総構」を築き、16世紀末には周囲約9㎞という大規模なものになりました。県内にはこの小田原北条氏と関連する城館が見つかっています。大きな影響を与えた小田原北条氏ですが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで滅亡すると、県内の中世は終焉を迎えることになります。
鎌倉市空撮