徳川家康が進めた天下普請の一環として江戸城を石垣に改築するための工事が1604年(慶長4)から始まりました。石垣の石は、伊豆半島の熱海や伊東のほか、県西部の真鶴、根府川、早川などに分布している安山岩が使用されました。小田原市西端に所在する早川石丁場群関白沢支群では、石の切り出しから整形、運び出しに至るまでの様子がわかる遺構が発見されました。遺跡は、箱根外輪山の東側の山腹に立地し、早川の支流の関白沢と呼ばれる大きな沢によって深く解析された標高200m前後を測る北向きの斜面上に位置しています。
小田原市 早川石丁場白沢支群
この場所で石の切出しや整形が行われていたことが判明しました。右側では、自然石から大きなかたまりを切出し、さらに切出した石を目的の大きさに分割する作業が行われていたようです。石は「矢」(や)と呼ばれるくさび状の道具によって割られますが、この矢を差し込むための穴(矢穴)が横一文字に開けられた母石が左奥に見られます。そして、中央の平坦な場所には整形途中の切石、左手前には整形された切石があります。
作業場
切出された石の中には、正面をなす部分に刻印が彫られているものがあります。刻印は大名ごとの違いを表わしていると思われますが、詳しいことはわかっていません。早川石丁場群関白沢支群では、「八」「○に十」「○に寸」が確認されています。
刻印
切出した石を運び降ろすための石曳道(いしびきみち)と考えられる遺構です。幅は3~4mで、底部には幅30㎝ほどの溝が2本掘られていました。溝と溝の間は約1.5mで、溝の中には小礫や切石を割った際に出た破片がたくさん詰まっていました。地車(じぐるま)と呼ばれる荷車がわだちにはまらないよう舗装していたと思われます。切出された石は「石舟」と呼ばれる船で江戸まで運ばれました。
石曳道