奈良・平安時代のお墓や埋葬についてはあまり解明されていません。
仏教の伝来とともに火葬の風習が伝わったと言われており、文献の記録では文武天皇の4年(700年)に僧道昭が火葬されています。その後、仏教の広まりとともに仏教思想に基づく葬法として、近畿地方を中心に火葬の風習が広がっていきました。
この時代の火葬墓は、土坑に火葬骨を納めた土器を納めています。神奈川県内で発見される火葬骨臓器の多くが土師器の甕を利用していますが、須恵器の壺が使われた例もあります。また、土師器や須恵器の坏が蓋として転用されていることもあります。
神奈川県内で火葬墓は旧武蔵国の一部である横浜・川崎地域を中心に発見されています。写真で紹介しているのは横浜市鶴見区馬場7丁目で調査した馬場綿内谷遺跡から発見された火葬墓です。4基のうち、3基は口縁を下にした逆位で、1基は口縁を上に向けた正位で埋められていました。そのうち2基は土坑内に貝殻を詰め込んでいました。近くにあった縄文時代の貝塚から持ってきた貝殻を埋めていたようです。縄文土器の破片も混ざっていました。
奈良・平安時代の集落に比べて、火葬墓の発見は非常にまれです。火葬されて丁寧に埋葬されている人は、一握りの権力者やその家族だろうと推測されます。集落に住む多くの人たちがどのように埋葬されたかは、謎につつまれています。
火葬墓 横浜市鶴見区 馬場綿内谷遺跡