-相模国府の所在地が判明!-
湘南新道関連事業の発掘調査で、相模国府の国庁の建物址が見つかりました。発見されたのは、坪ノ内遺跡と大会原遺跡からで、役所の脇殿にあたる建物になります。国庁は、正殿、脇殿、前殿、門、塀などで構成されていますが、正殿を中心に脇殿が両脇に並ぶ「コ」の字状を呈している建物配置である事が全国の事例で明らかになっています。
東脇殿と想定される掘立柱建物址は、桁行9間以上×梁行3間の庇付きの建物で、おおよそ22m×11mの規模になります。一つの柱穴の大きさは、縦幅1.0~1.5m、横幅1.0m、深さは深いもので1.2mありました。建物址の時期は、出土している遺物から8世紀第2四半期頃と考えられています。
西脇殿は建物址の一部が確認されているのみで、全体像はわかりませんが、みつかった柱穴から、東脇殿と同規模の建物があった事がわかりました。
両者の建物址は、東脇殿では1回以上、西脇殿では2回以上の作り替えがあった事が、柱穴の観察から想定されます。
掘立柱建物址・東脇殿
国府域からは、国庁の建物址の他、生産址として大型鍛冶工房が2ヶ所でみつかりました。
西側の鍛冶工房は、東西約13m、南北5m以上の竪穴状の遺構で、周囲には柱穴が確認されています。その中に、鍛冶炉が18基確認され、16基が2基1対で並列していました。このような鍛冶炉を「連房式鍛冶炉」と呼び、官衙や国府・郡衙といった公の施設等が経営するような施設であるといわれています。工房からは、椀形滓や鉄滓、鍛造剥片、羽口等、鉄の精錬作業に関する遺物が多く出土しました。出土している遺物から、この工房は9世紀後半~10世紀前半を中心として10世紀末頃までの操業されていた事が明らかにされています。
東側の鍛冶工房からは、東西約17mの規模の竪穴状遺構で周囲の壁に柱穴がみられる等、西側の工房と同様な様相がみられました。鍛冶炉は3基、確認されていますが、鍛冶炉の掻き出し口が西側である事等、詳細な点では東側の工房とは少し異なるようです。この工房は11世紀中葉の土器がみられる事から、この時期に操業を終えたと考えられます。
連房式鍛冶炉
国府域から見つかった軒瓦は、軒丸瓦3種類、軒平瓦2種類があります。
瓦の文様は蓮の花をイメージしたもので、これは国分僧寺・尼寺の再建期の時期に使用された文様意匠と同じでもあり、高座郡に所在する下寺尾廃寺からも同じ瓦が出土しています。外区の珠紋に太く「笵傷」が確認されていますが、傷の多さからみて、国分僧寺・尼寺→下寺尾廃寺→相模国府の順番で使用されたものと判断できます。瓦をつくる笵(瓦当笵)は木でつくられたものが多く、何度も使ううちに笵に傷がでてきて、それが瓦にも転写されるようになります。この「笵傷」は国分僧寺・尼寺で使用された時から確認されていますが、写真ほど深くはなく、だんだん使用しているうちにひろがってきた様子がわかります。
また、写真の軒丸瓦は、竪穴住居址のカマドの袖の補強材として使用された状態で見つかりました。国庁の屋根を飾った後、使わなくなってしまったので、ちょうどよいと思って使ったのでしょうね。
単弁六弁蓮華文軒丸瓦
湘南新道関連遺跡の調査ではたくさんの緑釉陶器が出土しました。緑釉陶器は古代の人々にとって、とても高貴な器だった為、一般集落から出土することは稀で、国府などの拠点的な遺跡から多く出土していますが、相模国府域での緑釉陶器の出土量の多さは、関東地方の国府の中でも群をぬいています。
古代の緑釉陶器の産地は、尾張(猿投窯、猿投・尾北窯)や三河(二川窯)、山城(洛北、洛西、篠窯)があげられます。相模国府域では、9世紀第2四半期頃から山城の緑釉陶器がみられますが、9世紀第3四半期頃に最も多く、この中心となっているのは尾張産(猿投窯)のものでした。猿投窯でも、ヘラミガキなどの調整や釉調が綺麗な、特に丁寧な造りのものが相模国府域に運ばれていたようで、優品があつめられていたようです。
湘南新道関連遺跡から出土した緑釉陶器