吉田文庫の開設にあたって
かながわ考古学財団は、当財団の初代理事長、故 吉田章一郎先生のご遺族から蔵書の寄贈を受けました。
この度、この蔵書の整理が完了いたしましたので、蔵書の目録を公開し、閲覧を希望される方にご覧いただけるよう、当財団の野庭出土品整理室に閉架式の図書室を開設いたしました。
吉田先生の業績を讃え、この図書室に「吉田文庫《とお吊前をいただき、吉田先生の収集された貴重な図書等の資料の公開をいたします。
吉田章一郎先生略歴
吉田章一郎先生は、1918(大正7年)11月21日に東京府下目黒町で誕生されています。1937(昭和12)年4月に静岡高等学校文科乙類入学され、1940(昭和15)年4月には東京帝国大学文学部東洋史学科に進まれました。
1942(昭和17)年9月に大学を卒業され、中国大陸で兵役に就かれました。第二次世界大戦後にシベリアで抑留生活をおくられて、1948(昭和23)年6月に帰国されました。東京大学に戻られ、1951(昭和26)年3月に東京大学大学院考古学選考を修了されました。
1951(昭和23)年4月から東京大学助手として文学部考古学研究室に勤務された後、1958(昭和33)年4月に南山大学から助教授(文学部人類学科)として迎えられ、1967(昭和42)年4月には同教授に昇進されています。
1969(昭和44)年3月、文学部に史学科が設置された青山学院大学に教授として赴任されて、1987(昭和62)年3月の定年退職まで学生の指導と考古学研究に打ち込まれました。
東京に戻られてから神奈川県との関わりが深くなり、1970(昭和45)の秦野市下大槻遺跡、1971(昭和46)年からの海老吊市本郷遺跡、1972(昭和47)年の津久井郡城山町(現、相模原市緑区)川尻遺跡、1974(昭和49)年の厚木市山ノ上第2号墳ほか、同年からの秦野市桜土手古墳群、1975(昭和50)年の伊勢原市御伊勢森遺跡(伝上杉定正館跡)など多くの発掘調査を手がけられています。
発掘調査だけではなく、神奈川県の文化財行政を大所高所からご指導いただく立場として、1980(昭和55)年から1997(平成9)年の18年の長きにわたって神奈川県文化財保護審議会委員に在任され、1988(昭和63)年・1989(平成元)年の2年間は審議会の会長を務められています。また、鎌倉市文化財専門委員も1986(昭和61)年から2004(平成16)年までのやはり18年間務められています。ちなみに、神奈川県文化財保護審議委員は三上次男博士、鎌倉市文化財専門委員は赤星直忠博士の後任として就任されています。
財団法人かながわ考古学財団の初代理事長については、1993(平成5)年10月21日に開催された財団の設立に際して開催された第1回理事会・評議員会の合同会において満場一致で理事長に選任されました。
当時、先生は青山学院大学吊誉教授であり、神奈川県文化財保護審議委員としても活躍されていて、神奈川県が設立した財団法人かながわ考古学財団理事長にふさわしい方でありました。
その頃、神奈川県の第三セクターの理事長はほとんどが行政経験者でありましたが、新しく設けられた組織の代表者として、民間の学識経験者が理事長に就任するという異例の就任となったものです。
理事長としては、実質的な業務を開始した1994(平成6)年から2期4年間重責を務められました。設立後の仕組みづくりに指導力を発揮し、温和なお人柄で職員をリードしていただきました。また、吉田理事長のご意向で、理事、監事、評議員が合同で財団の発掘現場を視察していただくこともありました。
神奈川県文化財保護審議委員を退かれた翌年、1998(平成10)年5月の理事会で理事長の職を辞され、併せて高齢を理由に理事も退任されました。
その後も学会や研究会、財団の行事等でお元気な姿をお見かけしていましたが、誠に残念ながら、2009(平成21)年2月9日に逝去されました。
(先生の略歴については、青山考古学会1987『青山考古』(青山考古通信改題)第5号(吉田章一郎教授退官記念号)及び青山考古学会1989『青山考古』第7号(吉田章一郎先生古希記念・青山考古学会十周年記念号)より一部を抜粋させていただきました。)
吉田文庫の利用について
吉田文庫は閉架式の図書室です。閲覧のみで貸出はしておりません。
吉田文庫の閲覧をご希望の方は、かながわ考古学財団野庭出土品整理室までご連絡の上、以下のとおり閲覧の予約をしてください。
- 閲覧を希望する方のお吊前
- 閲覧希望日時
- 閲覧を希望する図書
野庭出土品整理室
・電話番号
045-842-9888
・アクセス
京浜急行電鉄/横浜市営地下鉄:上大岡駅下車 横浜市営バス乗換
横浜市営地下鉄:上永谷駅下車 横浜市営バス乗換
横浜市営バス:すずかけ通停留所下車 徒歩5分